『珈琲ぶん』は、カフェとも喫茶店とも少し違う。「珈琲(コーヒー)屋」という言葉がどこか一番しっくりくる、そんなお店です。
国立駅のほど近くにありながら、喧騒を遠くに感じられる空間で、一杯の美味しい珈琲をいただく。誰かと話したいとき、ひとりになりたいとき、どんな気分にも馴染んでくれます。
「お客さんには、珈琲が好きでこだわっているという人もいれば、それほどこだわりがない人もいますよ。好みや味覚が人それぞれであるように、気候や室温、まわりの人の過ごし方、私やスタッフがカップをお出しする所作などでも、そのときの気分は変わると思うのです」と、ぶんさんは朗らかに話します。
「だからこそ、ここでは五感で感じ取れるもの全てに神経を研ぎ澄ませています」と、やわらかい笑顔の下に職人魂も。
そんなぶんさんのもとで、珈琲の奥深さを知り、修行を積んで自分のお店を立ち上げる人もいます。
「ここで働くスタッフは、性格も信念もさまざまですので、独立をするときには“自分のやり方のお店”を立ち上げてほしい。そのためにも、まずは私自身が珈琲屋としてもっとも合理的だと信じている仕事のしかたを伝えて、身につけてもらっています。1から教えますので、ときには厳しいこともあるかもしれません」
珈琲ぶんは、国立駅nonowa口を出てすぐの立地にあります。淹れたての珈琲やカフェオレ、クロックムッシュを味わっていく人、珈琲豆をテイクアウトしていく人など、絶えずお客さんが訪れます。
珈琲ぶんが生まれたのは、2003年のこと。かつての一号店は、国立の大通りの一つ“旭通り”沿いにあり、「今よりもずっと“喫茶店”らしい店でした」とぶんさんは話します。
「当時は席数も多く、食事のメニューやアルバイトの数も多かったので、やることが多かった。今の場所に移転したのは、自分がより珈琲に集中できる環境を整えるためでした」
カウンター5席、テーブル席3つの小さな店への移転は、より理想とするスタイルへと削ぎ落としていった結果なのですね。
「ROAST FACTORY」という看板も掲げている現在の珈琲ぶんでは、豆の焙煎技術のさらなる向上を目指しています。
「珈琲豆には“飲み頃”があります。ご自宅で珈琲を淹れる人にも、豆の香りや風味をより長く楽しんでいただけるように、“飲み頃を長く持続させる”ための焙煎技術をここでは追求しているんです」
珈琲屋の仕事とは、豆の選定、焙煎、挽き方、淹れ方など、すべての技法に自分なりの哲学を持ち、その道を極めていく職人仕事でもあります。
そんな珈琲屋としてのぶれない信念と、どんなお客さんにも心地よく寄り添える柔軟さのほど良いバランスは、珈琲ぶんにしかない持ち味です。
それは、店主のぶんさんの優しい人柄そのものであるようにも思えます。
「国立には、おしゃれな女性が多いですよね」
国立に店を構えた理由を尋ねると、ぶんさんははにかみながらそう答えてくれました。
店を立ち上げる前、道行く人のたたずまいやファッションを見て、この街には自分の感性を受け入れてくれるお客さんがきっといるはずだと確信したそうです。
珈琲ぶんは、店舗設計からインテリア、自家焙煎の珈琲豆のパッケージデザインまで、すべてを店主のぶんさん自身が手がけています。
「モダンな茶室のたたずまいが好きで、10代の頃からインテリアの本をたくさん集めていて」と話すぶんさん。だからでしょうか、店内のしつらえには、どこか日本の茶室のような侘び寂びを感じさせます。
珈琲屋になろうと決めたのもほぼ同時期、当時住んでいた鳥取の喫茶店で、一杯のデミタスに衝撃を受けたことがきっかけでした。
17歳で「珈琲屋になりたい」という夢を描き、21歳で何も持たずに上京。「2年は修行に集中する」と決め、インテリアの専門学校に通いながら、当時、高付加価値型の珈琲を提供するスタイルの先駆けであった喫茶店で修行を積みます。
就職活動も、自力でリサーチや飛び込みを重ね、ようやく見つかった設計デザイン事務所でのアシスタントからスタート。「ここで自分は何ができるか」ということを、誰に教わることなく考えながら、少しずつ自分の仕事を作っていったそうです。
バブル崩壊、阪神淡路大震災など激動の時代を経て、設計の仕事をはじめて8年目でフリーランスとして独立も果たします。
店舗設計、注文住宅をまるごと受注できるほどのスキルを持ち、独立して成功しながらも、あえてリスクを冒して「珈琲屋」に転身したぶんさん。思わずその理由を尋ねると、「自分の目的は、はじめから珈琲屋でしたから」とぶんさんはさらりと笑って答えます。
「確かに、設計の仕事をしていた頃の方が収入は多かったですよ。けれども、自分は儲からなくても生きていければいいと考えています。もちろん家族の理解が得られる範囲での話ですが……。その上で、自分が得意なことを集めて、自分が満足する生き方、やりたいと思うスタイルが、自分の場合は珈琲屋だったんです」
自分らしく無理をせず、好きなことを身の丈で続ける。きっと、そう簡単なことではありません。けれども、「どんなことでも満足するようにやればいいんです」と穏やかに話すぶんさんの仕事や生き方はかっこよくて、研ぎ澄まされています。
「思い描く理想にはまだまだ程遠い。17歳の頃、珈琲屋を志すきっかけになったデミタスの味には、未だ追いついていませんから」と、ぶんさんは夢を描き始めたばかりの頃を振り返ります。
「今は店を大きくするとか、2号店を作るといった野望はありません。この場所で、一杯の珈琲、インテリア、コミュニケーションの精度を上げていくこと。それだけです」
思い描く理想と心地よさを追求していく。その先には、どんな時間と空間が広がっているのでしょうか。
「これまで、珈琲をものすごくたくさん飲み比べてきたわけではありません。でも、ぶんさんの珈琲を飲んで、その味の違いをはじめて感じました。珈琲の世界は奥深いものだと知ったんです」
そう話すのは、スタッフの篠田さん。
「はじめは“珈琲の淹れ方を見て覚える”という、職人の世界だと思っていました。けれども面接のとき、ぶんさんは 『自分が知っていることは全部教える』と言ってくれたんです。そのことがすごく印象に残っています」
その言葉通り、珈琲ぶんで教わったことは「珈琲の淹れ方」だけにとどまりませんでした。
「ぶんさんの教えには、本業の仕事にも活かせることがたくさんありました。まちの書店は、接客やサービスに関してまだまだ未熟です。ぶんさんが大切にしている、お客さんの様子に合わせた心地よい接し方をすることや、雑務に関してもただ作業をするのではなく、なんでこの作業をしているのか、手順にどういう理由があるのかを考えて、1ミリずつ改善していく。そうしていると、自分自身も少しずつ良い方向へ変わっていったんです」
篠田さんは、そう話します。
「見て覚えるという教わり方では、ただ表面をなぞるだけ。“なぜこうするのか”という理由や裏付けは、伝えてもらわないかぎり完全には見えないものです。どんなことでも手癖でやるのではなく、常に改善するよう努力するという姿勢は、ぶんさんから教わりました」
仕事に厳しいだけでなく、丁寧にスタッフに伝えることもおろそかにしないぶんさん。その優しさは常に感じていたと、篠田さんは話します。
「ぶんさんのような人に出会えたことは幸運でした。教わったことすべてを無駄にせず、本屋の仕事でも受け継いでいきたいと思っています」
美味しい珈琲の淹れ方を知りたい、国立のまちで働きたい、将来独立したい。珈琲ぶんで働きはじめる人の動機は、本当にさまざまです。
「スタッフは皆、仕事のやり方も個性もさまざまですが、それを尊重しつつ“珈琲屋として大切にしてきた仕事の仕方”をきちんと伝えて、実践してもらっています」
そうやって、厳しくも優しいぶんさんの姿勢が、スタッフを支えています。
研ぎ澄まされた仕事に触れる。そうすると、人はどう変わっていくのでしょうか。
珈琲にこだわりを持つ人、持たない人。誰かと話したい人、ひとりになりたい人。珈琲ぶんを訪れる人は、今日もさまざまです。
どんな思いも優しく受け止めてくれる珈琲ぶんで、一杯の珈琲を。
東京都国立市中1-8-30 イトーピア国立マンション1F