昔から伝わる日本の調理法「天ぷら」とは、旬の素材を引き立たせる技術の一つ。
天ぷらを一言で表せば、 “全ての食材を主役にする料理法”。それは、経験を積んだ「天ぷら職人」にしかできないことです。
国立駅北口から徒歩5分。静かな住宅街にたたずむ『天ぷらやました』は、職人が手がける本物の天ぷらを味わえると評判のお店です。
「天ぷらは、旬の野菜が副菜ではなく主役になれる。だから好きなんです」
そう話すのは『天ぷらやました』のマスター、山下さん。
天ぷらが揚がるまでの時間を楽しませてくれるのは、彩り豊かな日本料理。国立市内の調理師学校『エコール辻東京』の元講師でもある、奥さんの麻衣子さんが手がけています。
「美しい紫色をしたカブや五色のニンジンなど、国立には珍しい野菜を作っている農家さんも多いんです。旬の野菜を活かした、普通の天ぷら屋さんにあまりないようなメニューを、季節に合わせて月変わりで考えています」
そんな山下夫妻と一緒に働くのは、未来の天ぷら職人を目指す若者や、旬の野菜やその料理法に興味がある学生さん、ワインや日本酒とのペアリングに興味がある人など、経験は少なくても料理の世界に興味津々な人ばかり。
『天ぷらやました』は盛り合わせではなく、素材の旨みが最も引き出された“揚げたて”を、随時お客様にお出しするスタイル。すべてのお客様に、最高の瞬間の天ぷらを味わってもらうこと。そこに、天ぷら職人の経験と技が生きています。
「油は時間が経てば劣化し、衣は使うたびグルテンが増えて、だれていきます。その天ぷら油と天ぷら衣を、開店から閉店までの数時間、最もいい状態にキープし続けます。また、食事のペースもお客様によって違いますから、お酒の進み具合などを見ながら、最も心地よいタイミングで揚げたてをお出しするんです。油と衣と人、その変化を追っていくのが、天ぷら職人の仕事です」
この3つの状態を常に把握し続けるためには、カウンター10席程度が限界なのだそう。
職人がカウンターに立ち、お客様とのおしゃべりを楽しみながら、目の前で最高の天ぷらを揚げる。それは、どこか寿司職人の姿を彷彿とさせます。
「“料理で手に職つける”ところや、“一つを極める”ところ、全てを身につけるには10年ほどかかる点は、寿司職人に似ていますね。僕自身も、20代の頃は天ぷら職人のことを知らず、最初に目指したのは寿司職人だったんですよ。はじめて天ぷら職人に出会って、その天ぷらを食べたときが、僕の転機になったんです」
「もともと料理は好きでした。学生の頃、おしゃれなパスタなんかがさっと作れると、モテるし友達にもすごく受けがよくて。でも、4年制大学に入学した頃は将来自分が料理人になるなんて夢にも思わず、調理師学校に入ったのは20歳も越えた頃だったんです」
国立市内の進学校『国立高校』に通いながらも、勉強はあまり好きではなかったと話す山下さん。そんな山下さんに料理人を目指すことを勧めたのは、弁護士の仕事をしていたお父さんだったそう。ちなみにお父さんも、その昔料理人を夢見たことがあったのだとか。
「フレンチやイタリアンの世界もかっこいいなと思ったんですが、毎日食べるものなら和食がいいと思って、『エコール辻東京』で日本料理を学びました。卒業して、“料理で手に職をつけたい”と思ったとき、まず思い浮かんだのは“寿司職人”でした」
西麻布の高級寿司店で働き始めたばかりの頃、偶然にもお客さんとして訪れた『エコール辻東京』の先生との会話のなかで、はじめて「天ぷら職人」の存在を知ります。
「あの“天ぷら職人”のいる店の天ぷらが、最高に美味いんだ」という先生の話が忘れられず、実際に足を運んでみたことが、山下さんの人生の転機となりました。
「はじめて食べたとき、とにかく衝撃を受けたんです。これまで、お店で食べて美味しいと思った料理は、家でもほぼ同じ味を再現することができたのに、天ぷらだけは全く再現することができなくて。これが『天ぷら職人』の技なんだと実感しました」
それから何度も店へ足を運ぶうちに、そのお店のマスターに「一緒に働かないか?」と誘われ、山下さんの天ぷら職人への道のりが始まりました。
寿司職人ほどは知られていない、天ぷら職人の世界。ですが、山下さんのように「天ぷらを食べて職人を目指す」人は多いそうです。
『天ぷらやました』を訪れるお客様は、お一人様だけでなく、大切な人や家族と一緒にちょっとした記念日を過ごされる方も多いそうです。
「ご家族連れのテーブルから『今日は七五三だったね』というような会話が聞こえてくると、記念日のプレートをこっそり用意することもあります。カウンターとテーブル席全てが記念日のお客さんで埋まっていたこともあるんですよ」と、食後のスイーツも担当している麻衣子さん。
「特別な日にここを選んでいただけるのは、本当にありがたいですね」と、山下さんも嬉しそう。
特別感がありながら、ほっと落ち着ける。その道を極めた職人の、やや敷居の高いお店に感じるような緊張感は、ここにはまったくありません。
「火を扱う職人だからこそ、あえて無愛想に振舞うべきだと言う人も多いんですが、僕はそういう緊張感や威圧感は一切出したくなくて。忙しいときほど笑顔でいられる、心の余裕はいつも持っていたいですね」と、山下さん。
天ぷらを揚げる横顔は職人そのもの。けれども、会話をしているときは自然体で、その優しい人柄はお店の雰囲気にも反映されています。
「美味しいお料理だけでなく、居心地のいい雰囲気を楽しみに来てくださるお客様も多いんですよ」と、職人見習いの飯田さん。
「私は熊本出身なのですが、郷里が同じお客様も多くて。皆さんが優しく接してくださるので、嬉しく思っています。今度、石川県出身の男性も天ぷら職人を目指して上京されますよ」
職人が5分間で20尾をさばくという『銀宝(ぎんぽう)』をはじめ、本格的な天ぷら屋でしか見られない食材のほか、ここでは一年を通してさまざまな旬の食材との出会いがあります。
この食材は、どんな料理にすると美味しいのだろう……そんな興味やアイデアを、天ぷらや日本料理に精通する山下夫妻に話してみると、さらに知識が深まっていきます。
「天ぷらに使われているのは、小麦粉と水と油。これは、フレンチで使われるホワイトソースと同じ。なので、天ぷらはワインとも相性がいいんです。たとえば白身魚の天ぷらには白ワイン、ちょっと苦味のある鮎や筍には日本酒と、食材によって合わせるお酒を変えても楽しめるんですよ」
旬の食材、職人の天ぷら、日本料理、ワインや日本酒。そして、人々が笑顔になるあたたかいお店づくり。はじめは小さな知識や興味でも、ここから扉が開いて、新しい世界が広がっていくかもしれません。
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